科学するエッセー
 

医療の未来を支えている数学

医療の未来を支えている数学
福島県立医科大学医学部 自然科学講座数理情報学分野 岡田達也教授
 
 現代医療の重要な考え方に「科学的根拠に基づく医療」を意味するEBM(Evidence-BasedMedicine)があります。病気の予防・診断・治療・予後予測に関してEBM の手法に基づいた様々な診療ガイドラインが制作され、一般の人々もそれを目にすることができます。その科学的根拠の中で最も重視されるものの一つが統計学です。人は観測不能な様々な要因によって一人として同じ人はいません。従って、同じ治療を行ってもその効果は様々に変動し、治療効果の評価は容易ではありません。しかし不規則に振る舞うデータの中から、一つの整然とした法則性を見出し、それを治療などの意志決定に役立てるのが統計学の役割です。

 近代看護学の創設者であるフローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)は、若いころから数学とくに統計学の分野に関心を寄せ、当時のイギリスの第一級の数学者たちの指導を受けて研鑽を積んだ優れた統計学者でもありました。彼女は、自らが従軍したクリミア戦争でのイギリス軍の戦死者・傷病者に関する膨大なデータを分析して、その多くが戦闘で受けた傷そのものではなく傷を負った後の治療や病院の衛生状態が十分でないことが原因で死亡したことを明らかにし、病院内の衛生状況の改善を促して傷病兵の死亡率を劇的に引き下げることに貢献しました。

 21世紀の情報化社会にあって、データはデジタル化され途方もなく増大しています。日本に限っても、2005年から2013年の8年間で、データ流通量は約8.7倍(年平均伸び率27.1%)に拡大しているそうです。(総務省、ビッグデータ時代における情報量の計測に係る調査研究、2014)医療の世界でも、血圧や脈拍などの「生体情報」、運動や食事などの「生活情報」を含んだ診療情報、医療計測データなどがとてつもないスピードで蓄積されています。そのような膨大なデータを分析するためのデータマイニング、機械学習といった技術も数学とくに統計学を抜きにしては語れません。
 数学、統計学はまた、個人に対する直接医療行為においても様々な貢献をしています。例えば、近年CT やMRI、PET といった画像診断の技術が進んでいます。これは、X線や磁力、あるいは体内に注入した放射線トレーサーを使って得た信号をもとにコンピュータを利用して人体内部の断層画像を再構築し、人体組織の形態や生体の機能を観察することで癌など様々な病気の診断に役立てる技術ですが、その画像再構築には代数学や統計学、解析学といった数学が使われています。
福島県立医科大学医学部 自然科学講座数理情報学分野 岡田達也教授  「数学とは異なったものを同じものとみなす技術である」、これはフランスの数学者アンリ・ポアンカレ(1854-1912)の言葉ですが、物事を抽象化し、本質的な要素を抽出することは、数学が最も得意とするところです。また、それを足場として様々な形や性質を分類可能にします。それゆえ、科学や技術は多くの面で数学を基礎にして構築されます。例えば、臨床医の間では胸部大動脈瘤の治療予後に「血管の曲がり」が影響することは認識されていましたが、医学の現場ではそれまで違いが認識されなかった「曲率」と「捩率(れいりつ)」という数学的概念を利用することで、「同じように曲がっている」と見えていた胸部大動脈が「捩率」の有無ではっきりと区別されるようになったそうです。(水藤寛、放射線医学と数理科学の協働による高度臨床診断の実現、日本数学会「数学」、2013)先に述べた画像診断の例でも、素材がX線や磁力、放射線トレーサーと異なっていても、信号発生のプロセスを適確に数式モデルあるいは関数として「定式化」し、逆問題としてもとの画像を構築しています。そこでは、複雑な関数を「分解」し「再現」するという解析学における一つの考え方が応用されているのです。数学的な考え方や手法によって病気の原因や発生機序を説明する新たな論理や視点を提供したり、治療のための新たなツールを提供したり、医療の未来には、このような可能性が大きく広がっているのではないでしょうか。
学問へのきっかけ 小中学生のころは数や図形で遊んでいました。台形の面積の公式で等差数列の和を求めることができることを発見して喜んだりしていました。今でも車のナンバーを見るとつい4ケタの数でどうやって10を作ろうかと考えてしまいます。特に数学者になろうと意識した訳ではなく、自分の興味の赴くままに歩んできたように思います。